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本書のトピックス
1.猪坂直一『回想・枯れた二枝-信濃黎明会と上田自由大学-』
(上田市民文化懇話会、1967年)の記憶違い
自由大学運動研究では、猪坂直一の『回想・枯れた二枝』に依拠して記述されることが多いが、記憶違いがかなりあり、注意が必要だ。
①大正10年2月、土田杏村の第2回哲学講習会が開催された一夜、自由大学の構想の実現には土田の援助が必要であると考え、猪坂は山越と土田の旅宿に訪ねた、とある(37頁)。
→土田と山越・猪坂・金井が上村旅館を訪ねたのは、柳沢昌一が「8月22日ないし23日」とし(「信濃自由大学設立過程の再再検討」『社会教育の研究』早稲田大学教育学部社会教育専修大槻宏樹ゼミ報告書、第8号、1980年)、上木敏郎は「8月23日午前」としている『土田杏村と自由大学運動』(誠文堂新光社、1982年)が、「8月22日夜」の可能性が高い。8月23日の18時からは田中王堂らが発起人となった土田の歓迎会が東京・京橋日吉町で開かれており、当時、上田駅から上野駅までは約7時間かかり、10時過ぎの列車に乗らないと上野駅着17時10分で、間に合わなくなる(「大正八年一〇月改正上野長野間列車時刻表」東京鉄道管理局)。
②猪坂は、「わが自由大学には校舎も教室も無かった。私は上田中学か蚕業学校の一室を借りようとその校長
に頼んだがことわられ、市役所の片隅でもと思って細川市長に会って見たが駄目。けっきょく黎明会が役員会
や懇談会にしばしば借りている市内伊勢宮の境内にある神職合議所をかりること」になったが、大正11年の第
2学期の11月の法律哲学講座以後は県立蚕業取締所上田支所の教室を使うことになった。「これはこの年私の
学校の先輩唐沢正平君が上田蚕種会社技師長より長野県技師に転じ蚕業取締所長となったので、所長の権限で
教室を提供してくれたのだ」と、回想している(44~45頁)。
→唐澤正平が1921年に長野県技師に転じ着任したのは蚕業取締所諏訪支所で、翌22年には蚕業取締所東筑摩支
所長に転じ、さらに松本支所長になっている(『上田蚕糸専門学校一覧』大正10年、大正11年、長野県知事官
房『長野県職員録』大正11年7月1日現在)。上田自由大学の会場が蚕業取締所上田支所となつた1922年当時の
上田支所長は楜澤精一で、26年まで支所長をしている(長野県知事官房『長野県職員録』大正11年7月1日現在、
大正15年8月1日現在、楜澤「楜澤精一略譜」『歌集句集 朝草』信濃毎日新聞社、1938年)。したがって唐澤
が「所長の権限で教室を提供」したとは考えられない。
③さらに猪坂は、唐澤が自由大学に教室を貸したことが岡田忠彦知事の知るところとなり、「その為か翌年松本へ転任させられた」と、回想している(45頁)。
→岡田知事の長野県知事在職期間は1921年5月27日から22年10月15日までで(長野県編『長野県政史』第2巻、1972年)、自由大学の会場が蚕業取締所になったのは次の本間利雄知事のときであり、唐澤はすでに松本支所長となっている。唐澤の松本支所への転任は岡田知事の軋轢が直接の要因であったとは考えにくい。
④上田自由大学講座一覧の第3学期(1923年11月~24年3月)の講座は次のようになっている(53頁)。
第1回 10月 経済学 山口正太郎 第2回 11月 文学論 高倉輝 第3回 12月 経済思想史 波多野鼎
第4回 1月 社会学 新明正道 第5回 2月 宗教学 佐野勝也 第6回 3月 哲学史 出隆
→筆者が当時の新聞記事や「中沢鎌太日記」から精査し、かなり違っていることが判明している。
第1回 11月 哲学概論 中田邦造 第2回 11月 経済思想史 山口正太郎 第3回 12月 文学論 高倉輝
第4回 3月 哲学史 出隆 第5回 3月 倫理学 世良寿男 第6回 4月 宗教哲学 佐野勝也
2.タカクラ・テルの上田自由大学での講義風景


この写真は、タカクラ・テル(高倉輝)の上田自由大学での講義風景としてよく知られている。しかし、何年の講座で、会場はどこなのかについては、猪坂直 一が年代を1922年とし(猪坂 『回想・枯れた二枝』1967年)、小崎軍司の編集による『写真集 上田の百年』(信濃路、1976年)も年代を1922年としてきた。また、小崎は会場を上田中学教室としている(小崎『夜明けの星』造形社、1975年)。
写真では、タカクラの後ろの黒板の文字に着目すると、フランス語で「Dites á Votre Monseigneur」「daus son café guil」などの文字が判読できる。タカクラがフランス文学を講義したのは1925年12月の第5期第2回講座で会場は上田市役所である。しかし、タカクラが講義した内容はボードレールを中心にフランス文学の変遷を述べたものであったが(中沢鎌太筆記ノート「自由大学筆記」其七)、黒板の文字は文章で、「悪の華」などの詩ではないことが知られる。また、右側の小黒板には「1866」「ルスキイ、エスッニク」「Pycckий」などロシア語の文字が判読できる。
中沢鎌太の筆記ノートによれば、「1866、「罪と罰」 ルスキイ、ヱフ、ツニク(露西亜報知)に載げ(ママ)られた」という記載があり(「自由大学筆記其四」)、「ルスキイ、エスツニク」はロシア語で「Pycckий becthиk」すなわち「ロシア報知」のことで、「1866」
が『罪と罰』の発表年を指すとすれば、筆記ノートの内容と小黒板の文字とがほぼ一致する。左の黒板のフランス語の文章がどの書物からの引用なのかについては、高倉太郎が筆者宛の葉書(2014年3月24日)の中で、「うろおぼえですが、思いだしました。私は日仏会館で調べた記憶があります。これはフランスの作家アンリ・バルビュス Henri Búrbusse(1873~1935)の『クラルテ』の冒頭の部分ではなかったかと思います」と記している。しかし、『CLARTE』の原文に当たっても類似するフランス語は出てこないので、現状では不明であるが、右側の小黒板の文字が中沢の筆記ノートとほぼ一致することから、この講義風景の写真は、1923年12月の第3期第3回講座「文学論」で、12月5日の長野県蚕業取締所上田支所の教室である可能性が高いと考えられる。
3.伊那自由大学での三木清を囲んでの写真
天竜峡仙峡閣で三木清を囲んだ写真は、2022年9月に三木清の長女永積洋子が保管していた100余点の写真が永積家から兵庫県たつの市立霞城館に寄贈されたうちの1点である(『神戸新聞』2023年6月3日、筆者宛宮島光志のメール、2022年9月12日)。宮島光志(富山大学)より写真鑑定の依頼があり、調査したところ、写真前列中央の黒眼鏡をかけているのが北澤小太郎であること(北澤小太郎長男洋太郎の証言、筆者宛北澤恭子の手紙、2023年3月30日)、その北澤小太郎の左側が 嶋岡潔に似ていること(嶋岡潔三男清文の証言、筆者宛嶋岡清文の手紙、2023年
4月17日)、中列の煙突右側が林源に似ていること(林源長男良三夫人圭美の証言、筆者宛林圭美の葉書、2023年5月7日)がわかり、北澤小太郎の、三木清の講義の「題名は『経済学の哲学的基礎』会期は三日間、受講料は金壱円、地元の龍江青年会も共催でした。(中略)終了した三日目天竜峡の宿舎で開かれた有志参加の夕飯会に出て、私のような田舎青年が二三質問した事に、先生が非常に親切に答えてくれた事を覚えています」という回想(北澤 「自由大学の想出」『自由大学研究』別冊2,自由大学運動60周年記念誌、1981年)を踏まえると、この写真は、三木清が伊那自由大学に出講した際に、宿泊先の天竜峡仙峡閣で1929年2月17日に撮影されたものにほぼ間違いないことが知られる。
4.宮芳平とタカクラ・テルの出会い

伊那自由大学に出講した際に仙峡閣で三木清(前列右から2人目)を囲んで(たつの市霞城館所蔵)
宮芳平は、タカクラ・テルとの出会いを、次のように回想している(宮芳平著・堀切正人編『宮芳平自伝-森鷗外に愛された画学生M君の生涯-』求龍堂、2010年)。
「その頃テルは上田にいましたが、わたしがまだ諏訪に来ない頃、画学生の頃、わたしの郷里の青年達が夏季大学というのを催して、テル、
その他一人二人の講師を招いたことがあります。わたしは夏休みで帰っていて、テルの話をききました。その頃テルは京都大学の助教授でし
た。テルはその頃小説や戯曲を書こうとしていたらしく思われます。」
宮芳平は、新潟県北魚沼郡堀之内村にある宮本家の保治が経営する丸末書店の番頭、中條登志雄が所属する「響倶楽部」の青年たちが設立した魚沼自由大学(創設時は魚沼夏季大学)の第3回講座が1924年8月に開かれ、このとき、聴講者が休憩時に観覧できるように約50点の作品を展示した。第3回講座の講師の一人が「文学論」を講義したタカクラ・テルであった。宮は、中條の紹介で、タカクラと知り合うようになり、その後も交際が続いた。
この引用した回想には誤りがある。1924年の夏は、芳平はすでに諏訪高等女学校の講師になっている。また、タカクラは「京都大学の助教授」にはなっておらず、すでに京大の嘱託を辞めている。
この回想に依拠したためか、竹中正夫や小島初子の評伝は、芳平とタカクラとの出会いを1922年8月の魚沼夏季大学のときとし(竹中正夫『天竉の旅人-画家宮芳平の生涯と作品-』YMCA出版部、1979年、小島初子『天竉残影-宮芳平伝-』冬芽社、1999年)、宮芳平の画文集の年譜は、魚沼夏季大学を1922年8月と1923年8月の開催とし、23年8月に芳平はタカクラと知り合っているとしているが(宮芳平『宮芳平画文集 野の花として生きる』求龍堂、 2013年)、いずれも誤りで、宮がタカクラと知り合ったのは1924年8月の魚沼自由大学第3回講座のときである。
小島初子によれば、1932年に長野県上諏訪町湯之脇の家にタカクラは3日間宿泊したことがある
(小島 、前掲書)。このときタカクラは「思いなしか憔悴していた。その奥さんの兄になる人は
東京で、右翼の人に刺されていた」とし、テルは芳平に「モデルになりましょう。描きませんか。」
などと言っていたという(宮芳平著・堀切正人編、前掲書)。タカクラが、1929年3月の山本宣治
の死で「思いなしか憔悴していた」とすれば、これは1932年に芳平の家を訪ねたときではなく、小
島の略年譜によれば1930年にも訪ねているので(小島、前掲書 )、「モデルになりましょう」と言
ったのは、1930年の比較的早い時期ではないかと思われる。堀切正人は、芳平がタカクラの肖像画
を制作したのは1935年としているが(宮芳平著・堀切正人編、前掲書)、紙にコンテで描いたデッ
サンであり、30年のときと考えられる。それが右の肖像画「高倉輝の像」である(安曇野市豊科近
代美術館所蔵)。

高倉輝の像
(安曇野市立豊科近代美術館所蔵)
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